原発と原爆とともに

「3.11」原発事故の後の時代を生きるための データベースを構築しています by 瀧本往人

支給されたおのぎり飯を口にする気力すらない被爆者母子(長崎市)ほか 山端庸介 写真 1945.08.10

題名 なし(「支給されたおのぎり飯を口にする気力すらない被爆者母子」ほか)

作者 山端庸介 

形態 写真 

日付 1945年8月10日


山端庸介(YAMAHATA Yousuke, 1917-1966)は、シンガポール生まれのカメラマン。長崎原爆投下1日後の光景を100枚以上撮影。

 

 参考

ナガサキの原爆を撮った男―評伝・山端庸介

ナガサキの原爆を撮った男―評伝・山端庸介

 
日本の写真家〈23〉山端庸介

日本の写真家〈23〉山端庸介

 

 

広島各地の被爆後の状況 川原四儀 写真 1945.08.09

題名 なし(広島各地の被爆後の状況)
作者 川原四儀 
形態 写真 
日付 1945年8月9日


撮影は8月9日に、軍の命令によって、救護と写真撮影を目的として軍医部将校とともに軍用車で各地を視察した際に行われた。ネガは軍の意向で処分された。


後に公開されたものは、密かに川原が保存していたものである。

一部では「8月7日」「8月8日」「8月10日頃」などさまざまな日付がつけられているが、以下の中国新聞の調べでによると「8月9日」に撮影したものが現存しているようである。

参照:
中国新聞 2005年8月3日 


川原 四儀(KAWAHARA Yotsugi,  1923-1972)は、当時、陸軍船舶司令部写真部(宇品海岸、爆心地から4.6キロ)。



 

カラー写真で見る「原爆」秘録 (写真集・20世紀の記録)
 

 

似島の検疫所の死傷者たち 尾糠政美 写真 1945.08.07

題名 なし(似島の検疫所の死傷者たち) 

作者 尾糠政美 

形態 写真 

日付 1945.08.07

掲載 アサヒグラフ(1952年8月)ほか
 

尾糠政美(ONUKA Masami, 1921-2011)は、島根県邑南町生まれ、三次市の写真館に勤務、当時は陸軍船舶司令部写真班員。戦後は島根に戻り「オヌカ写真館」を経営。クレジットはされていないが、1952年8月に発行された「アサヒグラフ」の冒頭の被爆者の写真を撮影した人物。



撮影は軍の命令で似島の検疫所にて8月7日に行われた。負傷者や死者を中心に撮っているのは、軍医の指示によってだった。

ネガプリントは軍の意向で焼却されるが、同僚の川原四儀がプリントを23枚、こっそりと保存したことで、彼らの撮影した写真の一部がその後残された。



参照

中国新聞 2014年8月4日

 

 

 

爆心から約500メートルの地点での写真 岸田貢宜 写真 1945.08.07

題名 なし(爆心から約500メートルの地点での写真)

作者 岸田貢宜 

形態 写真 

日付 1945年8月7日

岸田貢宜(KISHIDA Mitsugi, 1916-1988)は、広島で「キシダ写真館」を経営していた。広島師団司令部報道班員として、1945年8月7日に原爆が落とされた後の広島の光景を写真に残したことでしられる。

 

なお、孫にミュージシャンの写真などで知られるカメラマン岸田哲平(KISHIDA Teppei, 1977-  )がいる。マンガ「BECK」(ハロルド作石:作)には「岸田桔平」というカメラマンが登場するが、これは哲平がモデルになっている。


 

 

 

 

 

 

広島に原爆投下後の光景を撮影した写真5枚 松重美人 写真 1945.08.06

題名 なし(広島に原爆投下後の光景を撮影した写真5枚)

作者 松重美人

形態 写真

日付 1945年8月6日

松重美人(MATSUSHIGE Yoshito, 1913-2005)は、広島出身のカメラマン。中国新聞写真部。

爆心地から2.8キロほど離れた自宅で被爆、中国新聞社に向かう途中、さらに帰宅中に当時の光景を写真撮影。現在、5枚の写真が残されている。

 

なみだのファインダー―広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録

なみだのファインダー―広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録

 

 

広島県東北東の水分(みくまり)峡より見た原爆きのこ雲 山田精三 写真 1945.08.06

題名 広島県東北東の水分(みくまり)峡より見た原爆きのこ雲

作者 山田精三 

携帯 写真

日付 1945年8月6日

 

山田精三(YAMADA Seizo, 1928-  )は、広島県安芸郡府中町出身。当時は旧制夜間中学に通いつつ中国新聞社で働いていた。戦後、中国新聞編集局運動部で長年カープを担当、コラム執筆を続けた。

 

当時17歳だった山田は、1945年8月6日の朝、仕事をさぼって、友人と家の近くの水分峡に出かける。ここは、爆心地から6.5キロのあたりであったが、偶然、原爆投下後のきのこ雲を写真撮影する。


 

 

死の床に護る原子医学 九州タイムズ 1947.06.25

日付 1947年6月25日
題名 死の床に護る原子医学/肉体の変質おそれて施術拒み/きびしくも行く"科学者の道"
掲載 九州タイムズ 第441号 p1
発行 九州タイムズ社 (福岡)
編集 九州タイムズ社

リード
瞬光原子爆弾が長崎に落ちてから二年、復興の息吹のなかでなお爆心地浦上を中心とする原子野の一隅に、多年原子核の研究に専念するうち遂に放射線作用で侵された肉体を・・・(野村記者)


人名
末次博士
オルツクネヒト博士


キャプション
病める永井隆博士


参照
20世紀メディア情報データベース


参考

永井隆の生涯

永井隆の生涯