原発と原爆とともに

「3.11」原発事故の後の時代を生きるための データベースを構築しています by 瀧本往人

ネグリVSサルトル、ハイデガー

*昨日、突然、アメーバブログが使えなくなったので、こちらに恒例の記事を書くことにする。

 

「ネグリ、日本と向き合う」(NHK出版新書、2014年3月)のなかで、ネグリは、積極的に、「3.11」以降の状況について語っている。

以下では、そのなかで、サルトルハイデガーに論及した部分について、とりあげてみる。

 

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1945年から1970年代までの「国家」は、ネグリによれば、「原子国家(アトミック・ステート)」の時代である。

「原子国家」とは、「テクノロジーによる統治形態の名を借りて資本主義を正当化し、核技術を極端にまで押し進め、安全を脅かす核攻撃能力を蓄積する国家」(179ページ)のことである。

すなわちこの時期においては、「原子国家」に、「原子力発電所」ではなく、あくまでも「核兵器」にかかわるものである。

この時期において、サルトルは、次のようにネグリによって意味づけられる。

サルトル実存主義の哲学者たち」は、「核武装によって国家を「核の権力」として再定義する動きに対し広範な批判」(178ページ)をした。

言葉遣いが難しいが、要するに、この時期の「国家」の必然性は、核の脅威からどう逃れるかという前提があり、米国を支持する国家であれば、資本主義国家として正当化され、ソ連を支持する国家であれば、社会主義国家として正当化された、ということに対して、サルトルらが批判を行った、という内容であるにすぎない。

次の言いまわしも異様に分かりにくいが、それほど意味のあることを述べているようには見えない。

「暗雲立ちこめる空の下で、まっとうな生のあり方とは、技術による支配からいかに自由であるかによって定義されると人々は考えた。」(178ページ)

核開発に代表される科学技術を通じて形成される支配状況に対して、サルトルらが批判的であった、ということを述べているのであろうか。

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続いてハイデガーが登場する。

ハイデガーは、「こうしたポストモダンのカタストロフィーの観念の基底にあり、その言葉がしばしばファシズムの色合いをおびた哲学者」(179ページ)とみなされている。

「こうした」というのは、上記のように、核戦争がいつ起こるのかわからないような不安のなかで生きるような状況のことであろう。

 

ネグリの理解では、ハイデガーは、「核の時代」において、国家が不可避的に「原子国家」となることが「不可逆的」であり、「宿命」である。

 

さらに言えば、ハイデガーのこうした分析は、「権力の弁明」(179ページ)であることが明らかである、とみなされる。

 

しかもハイデガーは当初は異なる知見を提示してたにもかかわらず、結局は、この問題を投げ出してしまっている、とネグリはとらえる。

 

ハイデガーは最初こそ、技術のヘゲモニーと無現の拡張性の問題を強調したが、その技術批判の言説はたちまち、技術の表現を資本の表現へと還元する「命令」についての言説に従属してしまうからである。」(179ページ)

 

すなわち、ネグリは、あくまでも「技術」は、権力や体制に迎合するばかりのものではなく、さまざまな可能性を拓くだけの力能をもっているが、ふだんはあっという間に、技術を崇拝し、あたかももっとも客観的でもっとも万能であるものであるかのようにとり扱われるが、常に、「資本」の論理との接着が危ぶまれるものでもあるのだ。

 

ネグリの議論は、すなわち、あくまでもベースに、国家、権力、資本、などが、あり、そこに技術として、原子力(ここでは核兵器)が加わって、こうした世界を再強化しているにすぎない、というものであるだろう。

 

だが、原子力への欲望は、常に「国家」を経由しなければならないわけではない、ということも、私たちは理解せねばならない。

 

なぜならば、原子力がもたらす「効果」は、すでに「国家」を超えているからである。もっと言えば、対立する「国家」間の境界線を無意味化する、という意味で、きわめて「超-国家」的、もしくは、地球的課題なのである。