原発と原爆とともに

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広島市での原子爆弾の災害時に性機能に及ぼした影響に就て 産科と産婦人科 1946.07.01

日付 1946年7月1日

題名 広島市での原子爆弾の災害時に性機能に及ぼした影響に就て

作者 三谷靖、他

掲載 産科と産婦人科 13(6)  pp3-6

発行 診断と治療社

備考 執筆者は、三谷靖、幾石徹夫、伊藤光雄、岩井通、野津貞夫、岩館昌秋、街風喜雄、渡邊英二、可世木辰夫

 

原爆による早産、流産や異常、畸形は発見されず、生理不順、不妊娠はあったがその後80%が回復したとされる(言い換えれば、20%は回復していないということか?)。

 

三谷靖(1907-1985)は、当時、東大医学部産婦人科学教室、後に長崎大学医学部産婦人科学教室、1966年には医学部長、広島原爆病院院長。

 

幾石徹夫は、産婦人科の医師。「子宮膣部細胞肉腫に就いて」(産婦の世界、1949, pp118-21)「レントゲン照射の妊娠に及ぼす影響」(日本産科婦人科学会雑誌 Vol.2, No.1, 1950, pp17‑26)などの論考がある。

 

伊藤光雄は、看護学が専門で、後に国立東京第一病院産婦人科医長。

 

岩井通は、広島に原爆投下後街風らとともに入り医療救護活動を行うが、肺がんで若くして亡くなる(→こちらを参照)当時は学士という肩書になっている。

 

野津貞夫は、広島に原爆投下後街風らとともに入り医療救護活動を行うが、肝がんで若くして亡くなる(→こちらを参照)。当時は博士という肩書になっている。

 

街風喜雄(TSUMUJI Yoshio, 1914- )は、東大卒、関東逓信病院の産婦人科医。広島に原爆投下後岩井、野津らとともに入り2ヶ月間医療救護活動を行う。広島滞在中の血液検査の結果、岩井と野津の白血球は3000、街風は2700だったという(ちなみに私は去年2850)。著書に「ちぎれ雲」朝日新聞出版サービス、1995年11月、「産婦人科学・小児科学の基礎」北山徹との共著、医学通信社、1991年11月、「お産教室 : 妊娠から安産まで」鶴書房、1969年などがある。

 

渡邊英二は、東大医学部産科婦人科学教室。

 

可世木辰夫(KASEKI Tatsuo, 1917-2009)は、1946年に名古屋で可世木病院を開院、その後、人工授精、腹腔鏡(1949年開始)、体外受精(1986年成功)などで知られる。

 

参照
占領期新聞・雑誌情報データベース

 

参考(三谷靖)

婦人科手術の実際 (1960年)

婦人科手術の実際 (1960年)

子宮外妊娠の診断と療法 (1950年)

子宮外妊娠の診断と療法 (1950年)

婦人科手術の実際 (1967年)

婦人科手術の実際 (1967年)

 

参考(街風喜雄)

産婦人科学・小児科学の基礎 (必修医療実務教本)

産婦人科学・小児科学の基礎 (必修医療実務教本)

原子爆弾症のカルテ(加世田智秋)

 

*上記データベースでは、人名「三谷靖」が「二谷靖」、「岩井通」が「石井通」、「伊藤光雄」が「伊藤光男」になっている。

 

*加世田智秋さん、お問い合わせにお答えくださり、ありがとうございました。